ソシオン(書籍)3(by A. Augusta)

情報代謝のブロック

ブロックの形成

先に確認したように、それぞれの生物は八つの安定した性質――四つの物体の相と四つの場の相――を持っています。それらは合わさって EM の四つの相を形成し、それはつまり IM の四つの相も形成するということです。EM のそれぞれの相は、私たちがモデル A と呼ぶ、IM のメカニズムのモデルの別々のブロックによって反映されます。これらのブロックは四つあります。言い換えれば、人間の IM のメカニズムは、ブロック化された八つの IM 要素から形成されています。それぞれのブロックは、一つの物体の相と一つの場の相に対応します。

要素のブロック化の規則を理解するために、すべての IM 要素が静的と動的に分けられることを思い出してください。

静的要素 動的要素
Ne Se Ti Fi Ni Si Te Fe

静的要素は他の静的要素とだけブロックを作り、動的要素は他の動的要素とだけブロックを作ります。たとえば、Se は Ti か Fi とブロックを作ります――あらゆる対象は、その客観的な性質と他の対象の客観的な性質との関係の観点から(SeTi または TiSe)、あるいはある対象の別の対象への必要の観点から(SeFi または FiSe)考察されるのです。Te が Si か Ni とブロックを作るのは、あらゆるプロセスが、空間の中で起こる他のプロセスとの関係の観点から(TeSi または SiTe)、あるいは先行するプロセスまたは後続のプロセスとの関係の観点から(TeNi または NiTe)考察されうるからです。

以下に、IM のブロックにおける要素のあらゆる可能な組み合わせを示す図を掲げます。要素をつなぐ矢印が二方向なのは、ブロックの中ではどの要素も一番目にも二番目にもなりうるからです。四つの静的要素は八つの静的ブロックを形成し、四つの動的要素は八つの動的ブロックを形成します。

あるブロックは物体の相で始まり、場の相で終わります。これらのブロックでは、対象が置かれているある状態についての外向的な情報が、対象と他の対象との関係についての情報へと変換されます。すなわち、対象の内部に存在する何かが対象の外部に存在する何かへと転換される、言い換えれば C.G. ユングが呼んだように「外向化」されるのです。このようなブロックを外向ブロックと呼ぶことにします。

他のブロックは場の相で始まり、物体の相で終わります。これらのブロックでは、対象間のある関係についての情報が、対象の内部で、あるいは対象に起きている何かについての情報へと変換され、すなわち「内向化」されます。このようなブロックを内向ブロックと呼ぶことにします。

全部で、四つの外向の静的ブロックと四つの内向の静的ブロックが得られます。

[図: 静的ブロックの形成]

静的ブロックの形成

外向の静的ブロック 内向の静的ブロック
SeTi SeFi NeTi NeFi TiSe TiNe FiSe FiNe

全部で、四つの外向の動的ブロックと四つの内向の動的ブロックが得られます。

[図: 動的ブロックの形成]

動的ブロックの形成

外向の動的ブロック 内向の動的ブロック
TeSi TeNi FeSi FeNi SiTe SiFe NiTe NiFe

外向ブロックでは、対象の性質と状態が、他の対象との特定の関係の根本原因です。SeTi ブロックにとっては、対象自身の性質、その力、美しさ、意志が、その対象への肯定的あるいは否定的な態度の原因となります。たとえば敬意や軽蔑がそうで、他者の自分への態度を変えたい人は、自分自身の性質を変えなければなりません。内向の TiSe ではその逆が当てはまります。対象への態度、敬意あるいは恐れが、対象がどう見られ、何に変わるかを決めます。このブロックが IM のメカニズムにおいて主導的であれば、個人は自分が果たす役割の結果として変化していきます――役割とは関係であり、関係が対象の性質を決めるからです。たとえば、そのような人は一介の教師であるあいだは、物静かで控えめで勤勉です。校長に任命されると、独裁者に変わります。

受容要素と生成要素

IM のブロックを形成する要素は、異なる機能を果たします。ブロックの第一の要素は現実を反映し、撮影し、再現して、心に客観的な情報を与えます。この情報は常に心自体の外部から来る何かです。情報の量は十分でないかもしれませんが、情報そのものが主観的であることは決してありません。それは常に、客観的世界と、この客観性の一部としての自分自身の反映です。第一の要素は、自分が反映するものに対して常に共感の感覚、すなわちある種の一体感を持っていることに注意すべきです。この第一の要素を受容要素、すなわち外部に存在するものを知覚する要素と呼ぶことにします。

各ブロックの第二の要素は生成要素です。その生成物とは、個人が第一の要素を通じて受け取った情報から引き出すものです。第二の要素は創造的とも呼べますが、それは、第一の要素が与えた情報からそれが引き出すすべてのもののうちに、客観的世界の一部ではなく、かつてもそうでなかった何かがあるからです。この「何か」とは、その要素自身の結論、客観的世界の対応する側面についてのその要素の考え――その側面が何であり、何でありうるか、何でなければならないかについて、その要素が考えること――です。生成要素は共感的というよりも道具的です。この道具性には二つの側面があり、第一は個人が客観的な現実に適応する主観的な仕方、第二は創造性です。この創造性は、第一の要素を通じて集められた完全に客観的な情報、第二の要素の技能、双対と要求者(benefactors)の有無、そして個人にある決定を他の決定より優先して下させるその他の特定の状況によって規定されます。

生成要素もその活動において現実の対応する側面を考慮していること、すなわち単に生成するだけでなく、ある程度は現実を反映してもいることは疑いありません。しかし、個人の思考の真の支点は、受容要素に対応する現実の側面にあります。また、個人が周囲の生成的な側面を自己の同一の側面と結びつけないことも明らかで、それゆえ生成要素には受容要素が持つ共感の感覚が欠けています。

受容要素は他者、つまりより賢い人やより経験のある人を模倣する傾向があり、それは個人が間接的に客観的な現実へと自分を方向づける方法です。生成要素は、当初の結論や決定が実現できないときに人が頼る、絶え間ない修正に陥りがちです。

私たちが気づいたように、個人が受容要素の「名において」話すとき、その人は欠点、足りないもの、「世界の完全な像」に欠けているものについて話します。このため、その人の話は批判的で否定的に見えます。一方、生成要素の「名において」話すとき、人はすでにそこにあるもの、存在しているもの、完成しているものについて話すので、それは他者には称賛と受け入れとして受け取られます。したがって、個人はいずれかの受容要素に関わる自分の達成について批判されると、その批判を肯定的に捉えます。しかし、批判が生成要素の達成に関わるものであるときは、それは不快に感じられ、気分を台無しにしようとする試みとして知覚されます。

合理性と非合理性

C.G. ユングにならい、すべての IM 要素を合理と非合理に分けることができます。

合理要素 非合理要素
Te Fe Ti Fi Ne Se Ni Si

ブロックもそれに応じて分けられます。受容要素が合理的であるブロックを合理ブロックと呼ぶことにします。

合理・内向の静的ブロック 合理・外向の動的ブロック
TiSe TiNe FiSe FiNe TeSi TeNi FeSi FeNi

受容要素が非合理的であるブロックを非合理ブロックと呼ぶことにします。

非合理・外向の静的ブロック 非合理・内向の動的ブロック
SeTi SeFi NeTi NeFi SiTe SiFe NiTe NiFe

ブロックを合理と非合理に分けることに意味があるのは、すべての IM のタイプが同じように分けられるからです。合理型(分裂気質者)に属する IM のメカニズムは合理ブロックから構築され、非合理型(循環気質者)に属するものは非合理ブロックから構築されます。このため、分裂気質者の世界とその世界でのふるまいは、循環気質者の世界とふるまいとは大きく異なります。

ブロッキング

IM のモデル A はそれぞれ四つのブロックから構築されます。この四つのブロックをブロッキング(blocking)と呼ぶことにします。このようなブロッキングは四つ――非合理のものが二つと合理のものが二つ――あります。

非合理の循環気質のブロッキング:

「貴族主義的」循環気質者 「民主主義的」循環気質者
SeTi NeFi SiTe NiFe SeFi NeTi SiFe NiTe

合理の分裂気質のブロッキング:

「貴族主義的」分裂気質者 「民主主義的」分裂気質者
TeSi FeNi TiSe FiNe TeNi FeSi TiNe FiSe

これらのブロッキングのそれぞれが、IM の四つのモデルを形成します。全体として、一つのブロッキングから四つの性格タイプが形成されえます。それらには二つの対立するダイアドが含まれ、社会的進歩のリングにおける軸の一つを形成しています。

ブロックの順序が異なるため、同じブロッキングに属する四人の個人の性格に似たところを見つけるのは困難です。むしろ多くの場合、彼らの性格が正反対である点が目につくでしょう。しかし、受容要素と生成要素がすべて同じである以上、それらの個人には何か共通するものもあるはずです。この共通性は、おそらく「世界の知覚」と呼ぶべきものの中に現れます。この共通性、ある種の「通約可能性」だけが、補完的な関係と消滅関係を可能にします。

この「同じ世界の知覚」、すなわち「通約可能性」とは何でしょうか。

同じブロッキングに属するタイプに何が共通し、何が彼らを結びつけているのかを理解するには、あるブロッキングを別のブロッキングから区別しているものを見極める必要があります。まず、すべての非合理的な IM のタイプ(循環気質者)のモデルが形成される二つの非合理のブロッキングを、すべての合理的なタイプ(分裂気質者)のモデルが形成される合理のブロッキングに対置してみます。すなわち、合理を非合理に、循環気質を分裂気質に対置するのです。

合理型と非合理型のブロックで一番目に来る要素を見てみれば、それらが異なることがわかるでしょう。分裂気質者の受容要素は循環気質者にとっては生成要素であり、その逆もまた同様です。

「貴族主義者」と「民主主義者」

時間の要素が情動と、体調が労働・行動・行いとブロックを作っている IM のタイプに、私たちは「貴族主義者」という呼び名を与えます。前者は情動の一貫性につながり、後者は仕事に喜びを求めることにつながります。仕事そのものはできれば快いものである必要があり、その結果は美的な喜びを与える必要があります。

反対に、「民主主義者」の情動は長続きせず体調によって決まりますが、そのような人々は有望な活動、すなわち将来の安全をもたらすような活動に、粘り強い執着をもって取り組みます。これは、時間の要素が身体的な活動の要素とブロックを作っているためです。

分裂気質の「貴族主義者」は、生成要素において「民主主義者」と異なります。これは循環気質のタイプにも当てはまります。

循環気質者の世界

循環気質者のブロックは非合理要素で始まります。

Ne Se Ni Si

このため、彼らの情動と行動は常に何か――ある体調の感覚、あるいはたとえば危険――の結果です。

Si➜Te Si➜Fe Ni➜Te Ni➜Fe

客体と主体は、その外的あるいは内的な性質のゆえに評価され、特定の感情を呼び起こします。対象の性質が一次的であり、それへの態度は二次的です。

Se➜Ti Se➜Fi Ne➜Ti Ne➜Fi

分裂気質者の世界

分裂気質者にとってはその逆が当てはまりますが、それは彼らのブロックが合理要素で始まるためです。

Te Fe Ti Fi

彼らにとって、外的および内的なプロセス、たとえば人々の行動と情動は、常にある体調の感覚、危険あるいは安全の感覚の結果であるのではなく、それにつながるものです。

Te➜Si Te➜Ni Fe➜Si Fe➜Ni

個人を対象と結びつける感情と態度が、それらの対象の特定の資質の原因です。対象に対する個人の感情と態度こそが、対象の性質を決めるのです。

Ti➜Se Ti➜Ne Fi➜Se Fi➜Ne

循環気質のブロッキング

貴族主義的循環気質者のブロッキングに属する人々にとっては、たとえばある人の意志的な資質が、その人が呼び起こす論理的な感情と、その人に対する態度の原因です。その人の潜在的な精神的資質が、倫理的な感情と態度の原因です。

Se➜Ti Ne➜Fi

彼らの体調の良し悪しの感覚は身体的な活動につながり、一方、美的な感情と喜びの欠如は受動性につながります。どんな危険も、将来起こりうるどんな厄介事も内的な緊張を生み出し、その緊張は情動を通じて放出されるか、行動へと動員します。

Si➜Te Ni➜Fe

民主主義的循環気質者のブロッキングに属する人々にとってはその逆が当てはまりますが、それは同じ受容の相の知覚が異なる生成の相につながるためです。ある人の意志的・身体的な資質は常に倫理的な感情と態度の原因であり、一方その人の潜在的な精神的資質は論理的な感情と態度の原因です。

Se➜Fi Ne➜Ti

美的な感情、すなわち感覚によって引き起こされる感情こそが、内的な興奮と肯定的あるいは否定的な情動につながるものです。感覚が快ければ個人は陽気になり、不快であれば怒ります。感覚がなければ、身体的な活動への準備として現れる内的な興奮も、情動もありません。将来への心配の感情は身体的な活動につながり、すなわち個人は、その活動が自分に何をもたらすか、あるいは自分から何を取り除いてくれるかがわかったときにだけ、本気で活動的になります。

Si➜Fe Ni➜Te

分裂気質のブロッキング

残る問題は、貴族主義的分裂気質者が民主主義的分裂気質者とどう異なるかを見極めることです。この違いの本質もまた生成要素にあります。

モデルが貴族主義的ブロッキングに属する人々にとっては、特定の行動が常に特定の体調の感覚と美的な感情につながります。これらの感情は、行動あるいは客観的なプロセスの結果です。したがって、自分に適切な感覚をもたらすためには、適切なプロセス、すなわち人間の活動の形態を研究する必要があります。同時に、情動は危険あるいは安全の感覚の原因です。これは、個人に安全の感覚をもたらすことのできる唯一のものが、自分自身と他の人々の適切な情動であることを意味します。

Te➜Si Fe➜Ni

論理的な感情が、対象がどう評価され、何に変わるかを決めます。対象への態度が一次的で、その資質は二次的です。一方、倫理的な感情は精神的な資質がどう知覚されるかを決めます。私たちが愛する人々、肯定的な倫理的感情を抱く人々は、より高い精神的価値とより優れた精神的資質を持っています。

Ti➜Se Fi➜Ne

民主主義的分裂気質者にとっては、人々の実務的な活動と行いは美的な感情にではなく、むしろ将来の安全の感覚につながります。情動、興奮は美的な感情と美的な喜びにつながります。

Te➜Ni Fe➜Si

一方、客体と主体の精神的な資質は論理的な関係によって決まります。それらの能力は、客観的世界における相互関係の論理をその人が理解しているかどうか、すなわち「論理的な感情」の質にもとづいて測られます。このブロックを主導とする人々が世界の哲学的な理解に惹かれるのは、おそらくこのためです。人々の意志的・身体的な資質は、倫理的な感情と対人関係によって決まります。他者との関係が安定していて分別のある人は強い人であり、意志の弱い腰抜けではありません。

Ti➜Ne Fi➜Se

反映の客観性の度合い

対象間の関係が対象の性質によって決まるのとちょうど同じように、それらの性質もまた対象間の関係によって決まります。対象を知っていれば関係を投影でき、関係を知っていれば対象の像を投影できます。世界のこれら二つの構成要素は厳密に相互依存しており、物体が場によって決まるのと同じ程度に、場は物体によって決まります。

個々のブロックは、現実の一つの側面だけを反映します。外向ブロックは対象の性質を反映し、それらの対象に対する関係、態度、感情を投影――生成――します。(英訳者注:外向ブロックでは、受容(第一の)要素が外向で、生成(第二の)要素が内向です。内向ブロックではその逆が当てはまります。)内向ブロックは対象間の関係、すなわちそれらの対象を結びつける場(あるいは感情)の性質を反映し、対象自身の性質を生成します。

IM の各ブロックは、客観的世界の二つの構成要素のうち一方だけを反映し、残りはいわば推し量ります。もし第一の要素が世界のすべての対象あるいはすべての関係についての情報を得ているのであれば、この「推し量り」は客観的な現実に完全に一致するでしょう。しかし、そのようなことは起こりません。

その結果、どの外向型も、たとえ物理学の法則について最良の知識を持っていても、物質的世界の起源と出発点は物体であると心の底では確信しています。どの内向型も、この起源を場として思い描きます。

SeTi ブロックと TiSe ブロックについて述べたことに戻りましょう。SeTi ブロックは対象をまさにあるがままに「見ます」。しかしそれは、対象間の関係を、もし存在する対象がこのブロックの知っている対象だけであったとしたらそうなるであろう関係として思い描きます。このブロックにとって、関係は常に、その関係に入る対象の性質から派生したものです。すなわち、それらの関係がどう思い描かれるかは世界そのものの反映ではなく、むしろ意見、投影です。そのような個人が対象間の関係をどう見て、対象についてどう感じるかは、その個人が知っている対象の性質によって決まります。関係についての結論は、客観的な情報に依拠している限りにおいてのみ客観的です。それが主観的であるのは、個人が持つ情報の量が主観的に限られているからです。この結論がどれほど正確かは、その分野における個人の知識と博識の水準に左右されます。このブロックの博識、すなわち知っていることの水準が上がるにつれて、結論の客観性も上がります。しかし、ありとあらゆる対象を知ることは不可能なので、それらのあいだの事実上の関係について完全に正確な心的表象を持つことも不可能です。事実上の客観的な関係と、それについての個人の結論とのあいだに、ある種の隔たりが生じるのは避けられません。

対象間の論理的な関係を反映する TiSe ブロックは、逆の像を示します。このブロックは、二つの対象のあいだのあらゆる関係について完全で正確な情報を得ます。そのため、対象がそれらのあいだの関係に劣らず具体的であるにもかかわらず、現実の対象について完全に客観的な心的表象を持つことはできません。このブロックは物質的な関係――対象を結びつける場の性質の一つ――を反映します。対象そのものを、このブロックはいくらか理想化された仕方で投影し生成します。このため、このブロックが生成する対象は、実際に存在する対象とは常に異なります。

生成要素の生成物は、客観的かつ主観的な性質を持っています。それは客観的な情報に依拠している限りにおいて客観的です。それが主観的であるのは、この情報が主観的な現実、主観的な可能性によって制限されているからです。

矛盾は進歩の原動力である

どの人の IM のメカニズムも、その受容・再現要素によって、現実のすべての側面の半分(四つの側面)だけを反映します。このため、個人の心における客観的世界の反映は完全には客観的ではありません。残りは推し量られ、推測されます。また、四つの受容要素のうち二つだけが自覚的で、「考え」、自分の知識をどこから得たのかを証明し示すことができる、という事実も考慮しましょう。他の二つの知識は、ふだん経験や技能と呼ばれるものの水準にあります。このことは、一人の人間の客観性についての私たちの評価をさらに下げます。

同時に、まさにこのことが、人間が客観的にそれまで存在しなかった何かを創造できる生き物である理由です。その主観性、すなわちすべての側面において客観的ではありえないことによって、人間は自分自身の新しい客観性を世界にもたらすことができます。

客観的に存在するものと、この客観性についての人の心的表象とのあいだの矛盾は、進歩の原動力であり、人間の知性の創造的な可能性と誤りの原因です。それは、人間の精神が客観的に存在するものから離脱できる理由です。もしそのように離脱する機会がなければ、人間の創造性は存在しないでしょう。

情報代謝とエネルギー代謝の管理

IM のどのブロックも、生物の EM と IM、およびそれらのすべての外的な現れを管理しています。この管理は、少なくとも次の部分から成ります。

  • 生物の機能系の管理――それによって生物は自己再生産するエネルギー系として機能する。
  • 行動の管理――それによって人は社会的な生き物として機能し、その主な目的は自分に生活必需品を供給することである。
  • 情報の収集と使用の管理――他の IM のタイプの人々の活動をプログラムする際の情報の使用を含む。